2005年12月16日

今日は黒赤黒ピンク

最近周りに言ってみたら呆然とされたというか引かれたというか。

「例えば世界史で1517年と1514年とかって混乱して覚えられないんですよ、4と7って
両方黄色だから」
「あの人なんて名前だったかなー、青色系の名前なんだけどな」

・・・ていうのは私だけですか?
ちなみに件名は今日の日付です。

つまり、日本語の文字、アラビア数字、アルファベットのほぼすべてに
頭の中で色がついているのだ。
(たとえば「つまり」は「ちょっとかすんだ黄色、おちついた緑、ちょっとオレンジ系ピンク」として頭に浮かぶ)

こういう現象、共感覚ていうらしい。
他にも音に色があったりにおいがあったり、
文字に色があったり触覚があったりするそうな。
私の場合文字の色はちゃんと印刷された色で見えるし、
単に人生で最初に見たその文字の色を覚えているのかもしれないので
ほんとに共感覚なのかもちょっと自信はない。
でも、周りの人に聞いたところこんなことはないみたいなんだけどな。

記憶力のせいだとしたら、
ここを見に来ている人には結構仲間がいるのでは
と期待してみるテスト。

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コメント

共感覚には、先天的なものと、後天的なものがあると思われます。
記憶によるものだったとしても、共感覚は共感覚です。

ただ私は、共感覚というのは潜在意識下では誰にでもあることだと思っています。
全ての人の頭の中で、異なる感覚はしょっちゅう互いに連鎖しているが、その連鎖が顕在意識にまで上ってくる人はわずかである、ということなんでしょう。

そういう少数派の人が、いわゆる共感覚者と呼ばれる人たちなのではないか、と。

そういう人は、始終、事物について、複数の感覚が共働するわけですから、当然、リアリティが普通の人よりも濃いと思われます。

夜中で眠いので、なんかまとまりないですが、直すことあったらまたコメントしますね・・・

あっ、どうも早速のお越しありがとうございます。
日経サイエンスの記事によると(この話を聞いた職場の人が図書館で調べ物のついでに見つけてコピーしてくれた)、
よくわかってはないものの遺伝的要素もあるらしいですね。でも家族に私しかいない・・・。
私は単純に最初に文字を覚えたときに一本余計なシナプスが形成されてるんだと思ってたんですが
そう単純な話じゃないんですかね。
ちなみに、最初のころに覚えた文字ほどvividな色をしている気がします。

共感覚者の定義にもよりますが、程度の差こそあれ、全ての人が共感覚者なのではないでしょうか。

だって例えば、美味しいご飯の画面を見て、食欲が出てくるのも、異なる感覚の交差ですよね。視覚→味覚。

音楽を聴いて情景を思い浮かべるのだって、聴覚→視覚、だし。

要は、情報のリンクがつながるだけのことではないか、と。

ただ、共感覚と定義づけられるくらいの人は、そのリンクがやたらに発達しているということか、と。

で、私の見立てによれば、共感覚というのは、天才的能力への入り口です。

それが開けば開くほどに、異なる感覚の交差が増え、それによって、異なる感覚から来るインスピレーションというものが増えてくるわけです。

例えば、文字から色が出てくるのであれば、色の組み合わせから言葉が出てくるという逆の作業も恐らく自動的に行われるはずです。

であるならば、空を見たらその色から言葉が出てくるし、紅葉を見たらその色から言葉が出てくる、というように、ありとあらゆる色に言葉を発せさせることができるわけです。

これこそが詩人の能力ではないでしょうか。

このような、感覚の交差、交換が始終脳内で繰り広げられる人間にとっては、世界が、まるでおもちゃの兵隊の世界のように、にぎやかであるのは必定でありましょう。

私のお茶の大先生(家元の次の位を持っています)が、
「年を取って一人でいても全然寂しくない」
とおっしゃっていたときに、私が、
「その感覚は、おもちゃの兵隊みたいにいろんな声がいつも騒がしい、というようなことなんですか?」と言ったら、先生が、
「ま、そういうことだよ。」と答えたのが非常に印象に残っています。

子供時代は、全ての人が、共感覚の世界に遊んでいたように思います。
私も、小さいときに台所で寝てしまったとき、うつらうつらしていると、暗闇の中をにぎやかに音楽を鳴らしながら進む機関車が見えたのをはっきりと覚えています。
暗闇を見ている、何も見えないはずの視覚からですら、別の視覚へとリンクがついてしまう・・・更にはこのときには、音楽すら聞こえてきたのでした。

ということで、共感覚を磨いていくと、日常は、すぐさま非日常の、ビビッドな色合いを帯びてくるわけです。
この、アカデミー賞を前に受賞した「アメリカンビューティ」のテーマにもなっている、「日常の中に非日常を見出す」ことは、全くもって能力、感覚、の問題であって、気合を入れて「さあ、今日から非日常の世界を生きるんだ。」と決意したとしても、簡単に実現されるものではない、ということが以上の考察から導かれるのではないでしょうか。

http://x51.org/x/04/09/0130.php
一番下にいろいろ共感覚のリンクあり。
imagingstarさんの共感覚の定義はこれよりも広いのでしょうか?そう考えるほうが後の文章が自然に読めます。そして、imagingstarさんご自身は、この狭義の共感覚者ではないとお見受けしますがどうでしょう。


つか、ここ見てる人には他にいないの?
音や文字や形に色とか音とかにおいとか触覚がある人。
(文字→色って一番多いパターンみたいですね)

1は黒で2はオレンジで3は黄ですが。
な行は緑。は行は赤。
でもこれらは皆知育玩具に付けられていた色ですな。

ドが白でレはオレンジでミはゴールド、ファは水色、ソは赤、ラは青紫、シは黄緑、みたいなのはあるが、これの出典は謎。

子供の頃「ん」の文字に追いかけられて押しつぶされる夢というのをかなりの頻度で見たのだが、
これは共感覚がもとなのか何なのかは大層謎。

って全然本筋ではないですね。すいません。

わーい、やっぱりいたぞお仲間!
ああでも人によって全然色が違うねえ。
私の数字の色は「かずのえほん」じゃないかなと思うんですが、もう確かめようがないです。

しかも音にも色があるという複数版の人だ。
でも音に色があるって、絶対音感とペアよね。
そういう人に聞いてみたかったんですが
アジア方面なんかの、「間違ったんじゃなくて正しい音として1/4音がある曲」の、平均律+1/4音なんかの色ってどうなってるの?

「ん」の文字に追いかけられるって・・・なんかすごく怖い。
「にほんごであそぼ」に出てきそうだけど。
語頭に来ない文字、っていう特殊さが不気味だったのでは?

あんまりいろいろと書いてあって、これってのがよくわかりませんでした。

だからよくわかんないけど、私の定義は恐らくすごい広い方だと思います。
単なる神経信号のリンクに過ぎないって思ってますから。

後天的な共感覚って結構簡単に付けられます。

お謡いの音階を学ぶのに使ってます。

もう音に色ついちゃいましたよ。

あと、東京を舐めたら味がするし、大阪を舐めてもやっぱり味がある。

東京はちょっと苦くて、大阪は小豆みたいな感じ。

>こまちゃちゃん
>アジア方面なんかの、「間違ったんじゃなくて正しい音として1/4音がある曲」の、平均律+1/4音なんかの色ってどうなってるの?

ううう。今手元に音源があったら聴いて再現してみたいところなんですが。
曲を聴いているときは調性に基づいて色合いを感じているようなのですが、
アジア系の音楽だと色々な色が渦を巻いてるように感じることが多い気がします。
雅楽だといくつかの色が縦縞で並んでいるんですが。

「ん」については多分こまちゃちゃんの言ってる通り、
子供時代語頭に来ないことがしばらく理解できていなかったので、
さらに「ん」という平仮名が書けるようになるまで結構時間がかかったため、
それが原因かなあとは思います。
未だに思い出すとぞっとする夢の一つ。

>しい
ほえー!
おもしろいなあ、その景色を私も見てみたい。
調性ごとに色があるという人もいるようですね。

私は子供のころ繰り返し見た夢の影響で、目の前に一本だけぶら下がった髪の毛が時々怖いです。
説明すると長くなるのでやめますが。

>imagingstarさん
N2's Homepage!は、Wikipediaの共感覚の項からもリンクが張られています。
ここが有名どころってことかも。

えーと、コメントは私の「狭義の共感覚を持っていますか?」という問いに対してのお答えだと思うんですが
どちらも微妙に狭義の共感覚じゃないような気がします。
・・・いったんいろいろ書いたんですが、門外漢の私が判断するのもどうかと思うんで一言ずつ「私はこう思う」ということだけ書いておきます。
謡いの音の色
意識して身につけるってのは狭義に限定するとちょっと違うんじゃないでしょうか。イメージ記憶術というほうがぴったりする・・・
東京と大阪の味
街という「概念」に色がつくという共感覚はおそらく狭義の場合含まれないと思います。五感同士の交錯ではないので。

うーん、うちの訪問者数から考えるともうこれ以上は出てこないのかなあ・・・。もっといるかと思ったけど。
共感覚(エセ?)を意識して数日過ごしてみましたが、
共って言う字がつくけどこれ誰とも共有できないのよね。
もう一個共感覚をやるといわれてもご遠慮して、それよりは五感を普通に研ぎ澄ましたいなあと思ったのでありました。

そのとおりです。
読んでませんが、その内容からは狭義の方には
入らないと思います。

前のコメントにも書いたんですが、
私の共感覚の定義は広く、それ自体
単なる神経信号のリンクに過ぎないと考えているので、
共感覚を特殊なものと考えること自体意味がないと
考えています。

だから、音と色の結びつきを後から付けよう(でも、後からつけているように見えても、本当は初めからあるわけです。感じたままに色をつけた場合)が、最初からそれが付いていようが、強弱、安定性の違いはあるにしても、その区別には全く意味がないと思っているんです。

そしてまた、それが五感同士であるか、それ以外の、概念を捉えるイメージ感覚や、第六感と五感の交錯であるかについてもほとんどその区別は意味がないというわけです。

さらに、共感覚(狭義ですらそう)は、潜在意識では全ての人にあまねく起きるが、それを顕在意識でどれくらい捉えられるか、だけが違う、という風に思っています。その意味で、共感覚は、全ての人にあるが、全ての人が感じるわけではない、ということができるわけです。

例えば、色を見た場合、人はその色自体だけを見ているわけではなく、過去に見た同じような色や、その色のあった場所の匂い、その色と似た色の物体の形、触感まで、どんどん神経信号のリンクをあらゆる方向(他の感覚へも含めて)に広げながら、潜在意識では一瞬にして思い出して感じているんだと思うんです。
ただ、その、潜在意識で感じている感覚を、ダイレクトに顕在意識で感じることができないように、かなり機能制限がかけられているのが普通の人で、機能制限があちこち解除されているのが共感覚者であったり、天才であったり、狂人であったりするのではないか、と思っているんです。

なぜ、くり返しくり返し、私が、全ての人が潜在的には共感覚者だと主張するのか。
それは、視覚を一定の方法で鍛えると、耳が良くなり、そして逆に耳を鍛えると視覚が良くなる、というような、五感の能力の交錯自体を目の当たりにし、自分でも体験しているからです。つまり、脳は、五感(あるいは別の感覚も)自体をもともと全てつなげてしまっているように感じるんです。

草間弥生さんの、「網」をモチーフにした作品を見ていると、彼女がどういう感覚で世界を捉えているのか、そして、なぜ彼女がしょっちゅう精神科に入院するのかを比較的容易に想像することができます。

絶対音感と同じく、共感覚も、ある意味、傍観者が勝手に作った、テーマのためのテーマのような部分があると思います。
その点では確かに、これにこだわるより、五感を率直に鍛えるというのはとても良いとおもいます。傍観者の話に時間を割いても、何の成果もあげられませんから。

ただ、五感を鍛えるということすなわち、共感覚を育てることに実は結びついているような気もするのですが、いかがでしょうか。

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