2005年8月30日

(T_T)

こまちゃ、基本的にテレビは水曜日以外N〇Kをつけっぱなしている。
やってるものを面白かったら見てる、と言う感じ。

・・・夏。戦後60周年。新しい資料なんかもぼろぼろでてきたらしい。
太平洋戦争の番組てんこもり。

今日は東京大空襲の体験談をやっていた。
空襲って子供のころから聞かされ続けて当時の戦争の常套手段のような気がしていたんだけど、違うんだと今年初めて知った。
非戦闘員を無差別殺戮した国にあとで「人道に対する罪」で裁かれたのな・・・。
生き残った人たちの話は、似たような話をいくつ聞いても一つ一つが新たに生々しく
むごくて悲しい。
またこんな番組やってるよ、と思いうわーもうやめてくれーと思うけれども、
チャンネルを変えたりテレビを消したりしてはいけない気がして、結局最後まで見る。

だってこれが戦争で、これが日本だよ。加害者で、被害者(あまり加害者としての番組はないけれど)。
自分で経験したわけでもないのにおかしな話だと思うけど、
戦争体験が忘れ去られてしまうことを恐ろしいと思う。
だから、せめて自分はちゃんと見なくちゃと思う。


新撰組を題材にした漫画「風光る(渡辺多恵子)」最新刊で、
沖田総司が刀にこだわって小銃の訓練を拒むという話があるのだが
その理由は「殺す相手の顔が見えないから」。
自分が殺すのはあくまでも個性をもった人間であることを忘れず、業の深さを噛み締めなければ武士道は死に、ただの人殺し(いやもともと人殺しではあるのだが)になってしまう、ということらしい。
実在の沖田総司が何を考えていたかは知らないが、近現代の戦争はまさに
「顔が見えない」戦争だな。
焼夷弾を撒き散らしたB29のパイロットには、
多分「燃える街」しか見えなかっただろう。
そこで逃げ惑い焼け死んで行く人の群れが見えたならあんなことは出来なかったはずだ。
・・・・・・とは、すでに信じていない自分も悲しい。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://komacha.egoism.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/924

コメント

「殺す相手の顔が見えないから」のくだりは読んだことがある。
多分、司馬遼太郎だったかなぁ。。。

ただ、人は相当の理由(は人それぞれだけど)があれば
人を殺すことが出来る生き物なんだと思ってる。
もちろんいいことじゃないとわかってるけど、
Aの命とBの命を秤にかける覚悟はある、、、かな。
願わくば空回りの覚悟であらんことを。

それを知ったなら、改めて「ゲルニカ」を受け止めて欲しい。>こまちゃ

おれは人を殺す覚悟をするぐらいなら逃げた方がましだと思う。ましてや戦争で。そんな覚悟をするくらいなら臆病者でいたい。もちろん個人としては覚悟というものがわかった上での話だけど。覚悟ができるからこそ個人としては逃げるべき。
そんなところで国と個人とを同一視させつつ、愛国心という甘美な妄想をよりどころとした単なる普通の国になってしまうことが、この国にとって本当に幸せなことなのだろうか。

ゲルニカはすごいと思うけどこわいです。
だってあれ泣き叫ぶ声と轟音が聞こえる気がする。

アイデンティティとして「日本人」であることを大事にするのは好きですが(少なくとも否定しようもなく日本語ユーザーだし)、愛国心を誰かに押し付けられるのは嫌いです。
何も押し付けなくても愛される国にするのがあんたらの仕事でしょ?と思うので(愛国心のある国ってのはどこだって押し付ける教育をしているのかもしれないが)。

ところでうらさん、この場合「逃げる」って「何から」「どのようにして」逃げるっていう意味ですか?
私は自分の意思に反して巻き込まれた戦争で人を殺したくはないですが、自分や自分の大事な人を守るためなら、大事じゃない人は殺すかもしれないなあとは思います。おーりと一緒のスタンスかな?
極端な話、どっかの国が侵攻してきて負けたらみんな奴隷にされちゃうんだとなったら必死で敵の兵士殺してでも撃退しようとするかもしれませんね。私は自分の不幸を甘受することが出来ないという意味での臆病者ですから。

まあそんなこといいつつ、丸ごとの秋刀魚の死骸ですらさわるとぞくぞくする人なので、実際にはやっぱり殺せないかもしれない(焼く段になるともう平気なんだけど)。
そうそう、人生の中で一度でも自分で引導渡した動物(魚じゃなく哺乳類か鳥類)を自分で処理して食べると言う経験をするべきだと思いつつ、どこかに実行しに行く勇気もないなあ。

>この場合「逃げる」って「何から」「どのようにして」逃げるっていう意味ですか?

んー、自分が人を殺すというシチュエーションに陥ることから逃げるということ。「良心的兵役拒否」(conscientious objection)の考え方で。

上にも書かれてるけど、「人は相当の理由(は人それぞれだけど)があれば、人を殺すことが出来」て、それが社会的にも許容されるものだと思う。
だから、怖いと思う。

良心的兵役拒否・・・「しょうゆ一気飲み」した某詩人を思い出してしまいましたが、あれですか?

日本に兵役ができるのはさすがに嫌かも。さすがにそれは通らないと思いたいです。
(かといって自衛隊なくなるほど人がいないのも困るよなあ、少なくとも災害のときに。)
つかそれ以前に私有事立法とやらで呼び出しかかる人ですか?ペーパー過ぎて役に立ちませんが。

どうだろう、多分かからないと思う。順番としては、
1.自衛隊○○官
2.予備自衛官補(○○師)
3.公務員○○師(行政職のひとたち)
4.おいらたちか現役な人たち
だろうし、有事には医師の調剤や投薬が認められてるし。
災害時に困るほど自衛隊が減ることはありえないかと。
なんせ、いまや世界第2位の軍事組織ですから。。。

>自分や自分の大事な人を守るためなら、大事じゃない人は殺すかもしれない
そうそう、このスタンス。
「目の前で起きようとしてる殺人を止めることが出来るのは
 説得ではなく暴力である。それも、事後ではなく事前に。」
を覆す言葉にいまだに遭えないなぁ。
>自分で引導渡した動物・・・
これは私もしたいし、子どもにもさせたい。
兎の火葬をしたときに物心の付いていた上の子は
下の子に比べて命の捕らえ方が明らかに違う気がする。

もとの文章が太平洋戦争についてのテレビ番組を見た感想だから、これは戦争についてのエントリってことでいいんだよね。

人が人を殺すことは、戦争の一番目につきやすいところだと思う。でも、それが戦争の本質じゃないと思う。
上で、こまちゃもおーりさんも書いているように、人は相当の理由があれば人を殺すことができる。それは、個人がそういった状況に投げ込まれれば必然のことだと思う。
でも、その「相当の理由」というものに「国家」が必然的に介在するのが戦争だと思う。これが、単に人が人を殺すことと戦争の違い。
おれは、鶏をさばいて命の尊さを知ることや、人を殺すことについての覚悟をすることは、末端で戦う兵士の心には影響を与えるとしても、戦争をする国家には何の影響もないと思う。
無差別爆撃を実際に行った兵士は、自分の行為が大義(例えば、東京大空襲なら、戦争を終結させるという目的)につながるのであれば、たとえ、逃げまどう敵国の民間人が見えたとしても任務を遂行しただろうし、そこで思いとどまることを正義とするのは、おれは間違っていると思う。

おれは、現状では、国家には防衛の手段としての戦争は必要と考えている。でもその国家に対して個人がどのように関わるかについては、もう少し選択肢があってもいいと思っている。
「おれは愛する人を守るために国を守るべく戦う」というアプローチをしてもいいし、「おれはどうしても戦うことはできないが、代わりに国への奉仕活動を行う」っていうアプローチがあってもいいのではないかということだ。つまり、国家がそのような選択肢を用意しておくということ。

国家と個人との関わり方を見つめ直し、国民の行動の選択肢を増やさなければ、戦争体験は全くの無駄になると思う。

…と書いてみてふと思ったのだが、こまちゃは「自分が戦地に赴いて敵軍の兵士と対峙する」という想定はしてないの?

>逃げまどう敵国の民間人が見えたとしても任務を遂行しただろうし、そこで思いとどまることを正義とするのは、おれは間違っていると思う。

これはもちろん思ってないですよ。国家単位での戦争って個人の殺人とは意味が違うと思うので。
今回のエントリーは衝動的に書いているのでなんですが、まとめるならば「戦争ってどうしたってこういう側面があるんだから安易にやろうなんて国はいわないでよね、国民は簡単に煽られないでよね」ってことですかね。
話がどうも妙に拡大してしまいましたが。

うーん。自分が外地に出征するという想定はあんまりないですね。この国の現状だと強制はされないから。性別のせいもあるかもしれません。同様に、「どうしても戦うことは出来ません」といわねばならないほどの状況が想像できないかも。
うらさんの懸念は今は応募制だけどこの先どうなるか、と言うところだと思うんですけどね。
ただ、国家総動員(やな言葉だなー)がかかった場合に、「どうしても戦えない場合の奉仕活動」が思いつかないです。戦地に赴いて命のやり取りをするのと等価な奉仕活動ってどんなでしょう。
すいませんわたしまだまだ考えが甘いんでしょうね。

話を広げてしまってすまないです。
私は逆に自分が外地に出征というか実際の戦場にでるという想定はあるなぁ。
「戦わなければ守れないなら、戦いに行く」ってのがあるのはやっぱり性別かな。

>戦地に赴いて命のやり取りをするのと等価な奉仕活動
現実に自分の命をさらしていることと等価なのかといわれたら疑問が残るけど、
出来ることはたくさんあるはず。

あまり知られてないけど兵器一個(戦車一台、ヘリ一台、船一隻)を
ちゃんとした状態で維持するためには2台分の予備部品を常備しておく必要があります。
1の戦力を常時展開するためには、3の戦力が必要です(つまり3交代)。
日本海~東シナ海のミサイル等を見張るためにはイージス艦が2隻いります。
上の理屈から6隻は保有していないと日本は突然のミサイル攻撃から
自国民を守ることも出来ません。
ところが、今は4隻しかありません(5隻目建造中)。
見張れていない時間もしくは場所が確実に存在しています。
(今はきな臭いときはアメリカがでてくれてますがそれはそれでどうかとおもいます)
そういう事実を、賛否は別として知っておくことって大事だと思うんです。
この国はなぜ必要なのかなにが必要なのかを過去のトラウマから
あまり教えてくれないですが、知っていれば出来ること出来ないこと
したいことしたくないことがもっと見えるような気はします。

自衛隊への肩入れの大きい私としては、もっと理解して、
納得できるのであれば彼らを支持してほしいと思います。
守るべきものの支持を得られない軍隊はあっけないほどもろいそうです。

結局具体的にはかけないおいらはしょぼいわけですが。。。

うーむ、私は奉仕活動と言う言葉でシンドラーのリストの「この小さな手で砲弾の内側を磨くんだ!」というのを思い出してしまったのですが、あながち遠くない?

難しいところだなあ、そういうことをちゃんと公開して防衛するのが大事なのは理解できるけど、それをする日本ってメンタリティが今とは大分変わる気がする。それがいいのか悪いのか、よくわからないや。まあやっぱり両面あるんでしょうね。

コメントする